世界三秒前仮説

偶数日にしか投稿しない

自我 境界線 -位置

気分が良い話でもなければ、面白くもない
ただわたしのこれまでを思いついたままに書き記しているだけ
山も、谷も、結論も、何もない ただ書いただけ
面白いものではないと思いますが、書いています。


お姉ちゃんとはひとまわりくらい離れている。
お姉ちゃんは大学生になった頃、わたしが小学校に入った頃からあまり家に帰らなくなっていた。
たぶん、3年になる頃には年に数回しか帰ってこなかったと思う。それでも、たまにお姉ちゃんとその彼氏と会ったり、家族ぐるみで旅行に行くこともあった。仲が良いのか悪いのか、よく分からなかった。

お姉ちゃんが家にいる時の記憶、大体お母さんが怒っていた。お姉ちゃん自身も、「お母さんとの思い出は怒鳴り声しかない」と、笑って言っていた。
お父さんもお姉ちゃんも家からいなくなって、やっと平穏が来たと思った。
もうこれで、必要以上に家族が喧嘩する声を聞かなくて良くなるから。
夜中、震えて家族の怒号を聞くこと、誰かの泣き叫んでいる声も、何もかもなくなる。

私は幼い頃からよくお母さんの携帯を借りてネットを見ていた。その時、メールを盗み見ることも覚えた。
お母さんからお姉ちゃんへのメールは、言葉を選ばずに言えば、暴言が大半を占めていた。幼いながらに、家に帰ってこない娘を心配するようなものとは思えなかった。
その頃から、お母さんはお姉ちゃんの悪口もよく言うようになった。ろくでなしとか、親不孝とか、幼い頃の私はそれを辞書で調べた。
それを見て、聞いて、私は「やっぱりお姉ちゃんは家における異分子だったんだ、いなくなって正解だ、やっと安心して暮らせる」と感じた、と思う。
そのような内容を内面化した結果か、私は徐々に姉への嫌悪を膨らませていった。確かにあまり妹のことを顧みてくれない姉ではあった。でも、姉に対する嫌悪の大部分は、伝聞から得たものだった。
今思えばこれも何というか、一種の洗脳のように思えてくる(もちろん、メールを見たことは私の勝手だが)。
年端も行かない次女にたったひとりの姉の悪口を聞かせ、仮想敵のように仕立て上げるのは些か酷ではないか。
お姉ちゃんと昔から、もっとちゃんと話しておけばよかった。まぁ、大きくなるまで連絡先知らなかったけど。

思えばお父さんのこともそうだ。お父さんも、私が小学校低学年の頃にはほぼ別居状態でほとんど家に帰ってこなかった。建前は「通勤が大変だから」となっていたが、もちろんそんなものではない。お父さんは、私が物心つく頃から夜中に暴れ散らしていた。部屋のドアの前にバリケードを作って、朝はベランダから隣の部屋へ、そしてリビングに行くような日もあった。耳を塞いでも、お父さんの狂ったような声と、お母さんの悲鳴が聞こえていた。でも、お父さんに優しくしてもらって一緒に出かけた記憶もある。お父さんは確かに、私のお父さんだった。
別居が始まってから暫くすると、ある日を境に建前は崩壊して、お母さんは「パパと一緒にいたらママが死んじゃってたかもしれない」「だって夜中怖かったでしょ?」としょっちゅう私に語りかけるようになった。
それはそうなのだが。私は私で、お父さんがお母さんを脅かす存在であったことを聞かされるのは、良い気はしなかった。だって、たったひとりの、血の繋がったお父さんだから。
癇癪持ちの人だから、お父さんに酷いことをされたこともある。でも、お父さんは、自室に私が描いた似顔絵を貼っていた。お父さんはお父さんなりに、父親をやろうとしていたのだと、思いたい。思わなければ、やっていられない。

高校3年生の12月、受験が終わったので毎週のようにお母さんに連れられ、お父さんに未払いの養育費を払ってくださいと頼み込むのに同行することになる。それに伴い、私は18歳になって初めて、私が12歳の頃に離婚していたこと、2回再婚をしていること、養育費は未払いで後妻に貢いでいるという旨をお母さんから告げられた。全て初めて知ることだった。
6年間知らずに生きてきたのは、不思議だ。6年間、お父さんのことを考えなくていい生活をできていたのは、お母さんの功績だろう。でも、何も知らなかったのに、受験が終わった途端、突然全てを明かされるのも苦しかった。
まぁなんだ、それは、数回目の頼み込みだった。お母さんがお父さんに「娘が可哀想だと思わないの?」と言うと、お父さんは「娘なんてどうでもいい」というようなことを返した。
私はその時、お母さんにもお父さんにも気づかれないように涙を流した。なぜだか、泣いたらいけないと思った。私がその場で発した言葉は、ひとつもなかったと記憶している。
お父さんはその1年後に自死するので、それがお父さんと交わした、いや、一方的に掛けられた最後の言葉になる。
お父さんは、何を思って私がいる場でそれを言ったんだろう。お母さんがそこにいなければ、もっと違う言葉をかけてくれたのだろうか。お父さんは、 

それでも私は、お父さんのことを、お父さんと呼び続けている。

私の世界には、ずいぶん前からお母さんしかいなかった。お母さんも、私しかいなかったんだと思う。
ずっと一緒に二人きりで同じ家庭にいると、何だか価値観も距離感もバグってくる。家庭内で1:1の関係しか発生しないから、何が正しくて何が間違ってるのか分からなくなる。全部お母さんが正しいと思い込む。それは歪みと、バイアスでできている。
私は、お母さんの視点でしか物事を見られなくなる。
それにも限界が来た。
お姉ちゃんはよく、「あの人は子供のこと所有物だと思ってるから」と言う。それは間違っていないと、わかる。

お姉ちゃんは、何で大学生になってから一人で生きていけたんだろう。
たぶん、私がいたからだ。私が、言ってしまえばスケープゴートだった。
最近、一瞬、お姉ちゃんを恨んだこともある。「私はお母さんのお世話をしてるのに、お姉ちゃんだけ自由になってズルい」と。でもそれはただの逆恨みというか。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、私が生まれるより前に家庭で不安な思いをしてきたんだろうと気づく。私が生まれるまでの11年もの間、一人で耐えてきたんだと。
そりゃ何がなんでも出たくなるよ、わかるよ。お姉ちゃんも同じくらい、すごくつらい思いをしてきたんだろうと思う。

私はもう23歳なのに、まだお母さんに囚われている。今、最近になって、やっと色々な決心がついてきた。遅いと思う。

2年前に鬱になってから突然ガタが来た。お母さんと暮らすのは限界だと感じるようになった。
今までも時折「機能不全家庭」や「アダルトチルドレン」、「親 依存」と調べることがあった。でも、打開は無理だと諦めていた。息がしづらい、という自覚だけを残して。
鬱になって逆に視界が開けたというか、言ってしまえば洗脳状態から解放されたのか。
「もしかしてこれっておかしいのか」、と思うことが増えた。違和感が大きくなる。歪みが見える。
鬱で脳が破壊されて、かえって正常に物事を見られるようになった。様様だ。
端折っているだけで、他にも色々と気づいたこととか、ある。でもここではとりあえず散らばりすぎないように記憶優先で書いた。

たぶん、まだ変な認知と歪みに囚われていると思う。他にもまだ、思うことがある。
これまで自分が嫌だったこと、つらかったこと、全部書けばいい。すべてを公開することで、「人に言えるくらいなんだから、なんてことなかった」と思えるようになるかもしれない。そういう気持ちもあって、いろんなところでいろんな話をしている。
これって自傷なのかな。そんなことないか。ごめん。同情されたいとも思わないけど、こんなことばかり言っていたら人は離れていくと思う
段々現在の感情ベースになってきたから、ここでやめる。
続きがあるとすれば、これは「自我シリーズ」としたい。
きっと続きがあるなら、重複する内容も出てくるかもしれないが、感情とエピソードの整理が目的だから。あまり気にしないでほしい

少しずつ、少しずつ、自分の意思を宿していきたい。